人を赦すということは

ずっと頭の中で考えていたことがあります。


みな、人はいつでも、人を赦したがっているのではないか、と。



というのは、人を憎む行為は、非常に労力がいるというか、憎めば憎むほど、自分が痛めつけられていくからです。
心も体も病んでいく、負の行為だからです。


だから実は、憎むという行為は、相手に向かう攻撃的な負の思い、その行為の「過程」の方向性とは逆に、

行為の「結末」としては、相手を赦し、

自分は憎しみという苦行から解放されたい、それを無意識に望む行為なのではないか、と。

つまり、人は憎んだときから、本当はすでに、赦したがっているのでは、という。

そんなことをつらつらと考えていました。



そんな時、BS世界のドキュメンタリーの再放送をみました。

http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/081125.html



「赦(ゆる)すことはできるのか 〜南ア 真実和解委員会の記録〜」

1986年に7人の黒人青年がテロリストの汚名を着せらて殺された事件では、7人の母親たちが事件の真相を明らかにするために立ち上がる。この殺害に加わった当時は警察官だった黒人男性が和解を求めて名乗り出るが、母親たちは容易には受け入れられない。

結局、この警察官は黒人青年たちに同士を装って近づき、スパイのような仕事をしていたのでした。
その真実を話す代わりに、自分の罪を赦して欲しいという、真実和解委員会への申し出。

次々と直接、警察官に怒りと悲しみをぶつける母親たち。
哀しみの叫びと涙が渦巻く対話の最後、一人の母親が言う。

「この憎しみを抱えたまま生きていくことはできない。あなたを赦したい。」

*1

正確には、この母親はこんな感じのことを言っていました。


「キリストは自分を処刑した人物を赦しました。わたしもあなたを赦します。
どうか、あなたも良い人生を送ってください。」

*1:この対話では、母親たちにとって、相手から直接真実を知り得た、相手が罪の意識を持った、そしてまた、自分たちも相手に直接悲しみをぶつけられた、ということが、その場で憎しみを放棄できた一番の要素になったのではないかと思いました。相手がたとえ処刑されたとしても、真実を話さず罪の意識を持たずに処刑されてしまったのであれば、憎しみの感情の解放はとても困難な作業だったのではないかと。そういう意味でこのケースは最善なのでは、と思います。